5年目の洗礼

トイレになにやら落としたと必死にもじもじときた。
もう早くやらなきゃいけないことがあったので
イライラしてみにいく。う○こまみれで、もうみえなくて取れそうもない。
ちっちゃいキーホルダーのチェーン部分らしく、どうでもいいものに思える。
彼にしてみれば大切なのでとってほしそうだったか、めんどくさくてイライラにまかせて
あれこれ怒って言って取らずにさようなら〜した。
息子君もう文句言われまくりで、大切なモノがなくなり泣くのを我慢するも
涙がとまらず顔がくちゃくちゃだ。かわいそうったらありゃしない。

失敗を責めてしまって全然駄目である。というかこちらの感情の押しつけだ。親としてだめだと思った。

自分自身幼き頃、同様の体験があり、そういう親には成らないようにしようと
思っていたが、とんでもない。

5年目の洗礼だ。

DVがDVを呼ぶのと同じく、性格も性格をよぶんだろうか。
まあそんなところだろう。

いったい何を大切にし、いったいその感情は何を責めようとしたのだろう?
そう思いを巡らすと、あのころの責められた自分自身を救おうとしていた己が、同時に
だんだんと、それは、もうぱらぱらと崩れ落ちるどうでもいい風化してしまったうすっぺらでな、脱皮し残った己の抜け殻を
必死に大切にしているようにも思えてくるのであった。
そして、己を大切にしている己ですら、もうそこに何か出来る己はいない化石のように動かないモノで
まるで失敗してはいけないと必死に失敗にしがみついていて固まっているかすかすの化石の残骸のようなのだ。
と気づく。もうすでにここにないものにずっと恐れおののいているようにも思えた。
そうやって、毎日の忙しさにイライラしている部分もあるのだ。
忙しいのが偉い!みたいな。
まるで今日の朝のレンドラで言ってた話とシンクロしているみたいだ!

そう思えるのも、きっと、親になり親の気持ちが分かるようになったからだろうけど。
こんなにずっと気づかずに憎しみをもっていたことが、空しくなる。

きっとそうした部分はまだまだ己の中に沢山あり、それを刺激する出来事でも有ればそのたびに
思い出したようにあれこれ動揺するにちがいなく
そんな己のふがいなさにあきれ、途方に暮れたりもする。

そして、ああ、また、なにかあれば、子どもを犠牲にしてしまうのかと辛い。

めんどくさいから、ここを一気に心から変えられるようにしたいとおもうのだ。

事象とどう接するか?どうみるか?自分でみられないとどうにもならん。

そんなことが問題にもならない人には、ちいさなことなのだけど、
自分にとっては切実なのだ。そうした課題はそれぞれだ。
ちいさかろうがなんだろうが、
これも出来ないで何が出来るだろう?(うんうん!その通り!と思うのだ。)

救いなのは、彼が今、生きているということだ。