エネルギーやパワー

チビ2号に圧倒されたとき,チビ1号が降参気味に言ったこと
「チビ2号はエネルギーがあるんだよ〜まいるよ〜」
無垢さにはかなわないところがある。
小さい頃のエネルギーは喜ばれる。
それが、いつの間にか、自分の中に存在する"イウコトヲキカナイモノ!"を
厄介者扱いし始める。すこし押さえつけたとしても、自分でもどうにもできず
圧倒されたりもする。
それは、怠惰とか、悪だとか、甘えとか、いろいろな言われようをする。
でも、そんな風にどのように名付けようが意味をつけようが、
間違いないのは、そこにパワーやエネルギーがあること。
その意味づけを少し忘れて、それを感じる時間もあっていい。
チビ1号のように、チビ2号の振る舞いに、まいってもいい。
大人は、自分の中に厄介者だと付けたレッテルに参るのは、いけないことだと
勘違いして思い込んでいる。
自分にあるチビ2号の様な存在を手放しで喜べないのだ。
自分の中にある圧倒されるようなものが、
(チビ2号のような)無垢さだとはおもってもいない。(忘れているだけのようだ。)
そんなところに可能性などないともおもってしまう。
もう、自分にはそんなのをかまっている時間は無いとか、もう、そんなのは
成長しないとかおもったりもする。そう思うのもわかるが、でも、
子どものそれには、目を細め、育てようとし、
自分にある同じそれには、目をつむるのは、なぜか?
とも思う。その割り切りを何時覚えたのだろう?ともおもう。
(自分の場合ははっきりしていて、明らかにノルマが生活の中にはいってきてからだ。
自分どころではなく、借金を返すために東奔西走することこそが
責任ある生活、生き方だと思ってきた。誰のためだ?と思う。でも、それを悪いことだと思っていない。そう勘違いしながらも、しようとしていることを否定しようというわけではない。否定すればパワーもなくなる様な気がする。)

やはり、それを、みとめ、そのレッテルを考えるのではなく
そこから"感じる"という意識(心がけ)があっても言いとおもう。
(感じているのを言葉で操作しないということ。)
自分がやるのではない。自分がやってくれることもある。
体を治すのと同じように、脳もそうやって、自分が
知識と知らなくても働いてくれてることを忘れてしまったら
自分のすばらしさを認めないで自分を卑下してしまったり、
あるいは、その逆に、自分の手柄だ!と思ったり、
自分がやったのだ!と傲慢になってしまったりするだろう。


・・・・意味づけも大事だとおもう。
よく見えないところを鏡のように写してくれたり、照らしてくれると
ホントに有り難い。

人間は、ほとんど勘違いしながらも、何か知ってると思う。
それが最高に楽しいと思っているとも思う。