人の愚痴を聞く 上級編?

基本的に愚痴を聞くのはとても慣れている。
っていうか、ほとんど毎日そうだから、
とくに愚痴とも思わない。
とはいえ、昔は愚痴といわれるものにとても
敏感だった時期もある。
・・・そう、あれは何年前だろう。。
俺は恋をしていて、その娘はしっかり者で
あんまり愚痴が好きじゃなかったのさ。
俺自身、愚痴というものがどのようなものなのかっていうのを
意識した最初だった気がする。なつかすぃ〜なぁ〜・・・・
・・・それで、なんとなくだが、愚痴っていうのは
つまんない話でどうでもいいようなことで、
話してもしょうがないことで、うだうだいってないで
がんばんなさい!って相手に言ってやりたくなるような
話のことであるようだと理解した。
言われてみればってことなのだが、それから大変だったが、
"愚痴を言わないかっこよさ"っていうのも理解できたし
そういう生き方、凛とした生き方、男気、女気の部分、尊敬もできるし
それは立派だという気持ちもある。
でも、そういう生き方って結構、俺にとっては
しんどいといえばしんどいし・・・まず無理ですし、他人事というか、
「別に愚痴もあってもいいじゃん!」
「必要じゃん!」って思う部分もあるので、絶対愚痴は認めない!って生き方は
なんだか、俺には苦しいと思う。っていうか愚痴をいわないなんて、
すごくかっこよくて、そんな尊敬できる人に
自分がなってしまおうものなら、笑ってしまう。
もともと、生まれつき愚痴のない生き方をしている人なら別にいいのだけど、
観察すると、「俺って、私って愚痴いってるじゃん!愚痴なんてだめだ!」って
反省して、がんばって愚痴を言わなくなる人、言わないように努めている人は、
他人の愚痴を1回ぐらいは聞いてあげるが、「繰り返される愚痴」については認めない聞きたがらない。っ
ていう傾向がある。
「愚痴言ってないで、がんばんなさい!」というタイプになるのだ。
(あたりまえのこと。認めないって事じゃない。後述)
私自身、前述の恋のとき、愚痴の存在を要不要で観るように敏感になった時期もあるが
そうした価値観から観れば確かに、愚痴はただの「悪者」「不要なもの」以外の何ものでもなかった。
(これは世界的にそういう傾向があるんじゃないか?って思う。)
しかし、「繰り返される愚痴」にも存在している意味がある。
それに、愚痴言ってないでがんばんなさい!でがんばれるなら
苦労しないのである。また、愚痴をいわないことがどういうことかも
理解できないから、そう言っても通じないのだ。
だいたい繰り返される愚痴や繰り返し聞かされるどうしようもない不満は
助けが必要だというメッセージそのものなのだ。
それに、自分に繰り返される愚痴や不満などなどが自分にあるにもかかわらず
毅然と無視し続け、がんばっちゃうと鬱になってしまうんじゃないか?って思うのだ。
愚痴も大切!なのだけど、それを理解したとしても
愚痴を気にせず聞くっていうのはなかなかむずかしいことだ。
これも、とてもわかることなのだ。
なぜなら、私達は自分でがんばって手に入れた自分があるし
その部分に関することについて「なんとかして」といわれても、「自分でなんとかするもんじゃないの?」
と思ってしまうからだ。
たとえば、極端なあり得ない話だが力士みたいに太った女が
「わたし、トイレで自分のお尻ふきたくないのよ。ほんと、もういやになっちゃう!
めんどくさくって、ウォシュレットもいやよ。水が届かないのよ。
あなたふいてくれない?500円あげるわ。でも、あなた手キレイ?ホント嫌になっちゃう!
ごめんね愚痴っちゃって。」
とか、分けがわからん事をいわれようものなら、「やせろ!このぼけ!」と言って延髄蹴りしたくなるはずだ。
程度の差こそあれ、ここまで明確ではなくても、多かれ少なかれ
「自分で"当たり前に!"手に入れるべきもの」と思っていることについて
あれこれ言われると「そんなこと言ってないで自分でがんばんなさい!」
といいたくなるものなのだ。
そういうこともあって、ここで問題にする「繰り返される愚痴を聞く」というときについて言えば
やはり「特殊なこと」として、対応しないとやっぱり上手くいかないと思える。
そして、このとき、特殊なことと理解しつつ接しようとしても、
愚痴を言わないのが偉くて、言うのは駄目駄目!的な
気持ちがどっかにあるとやっぱり上手くいかない。
それから、愚痴を言わない方向に話を持っていこうとしても上手くいかずストレスもたまる。
結局、それよりも、相手の話している愚痴そのものをそのまま受け止めるのではなく
その向こう側にある本音の部分について、何なのか?と見極めるようにしていく方が
かなりストレスも軽減されるし、相手から聴ける話そのものも自分にとっても
有意義なものになるように感じる。
それに、本当は相手もそのことが話したいのである。