「怠惰」について

"ある子"に「夢は?」と聞いたら、「部屋で寝転がってごろごろしていたい」といった。びっくりしたが、すごく気持ちが分かった。俺も部屋でごろごろしていたい。それが夢か?といわれかねないが、言葉はレッテルの役割もあり、その本意は正確に相手に伝わらないこともある。とりあえずそう言葉を発したその気持ちは認めるべきだ。それに誰だって疲れてたら、だらだらしたいものだ。
「部屋でごろごろすることでドンナ気持ちを味わえるのか?」
それに対する答えは「のんびりできる」であった。

今日、ふっとその、"ある子"の素直さを思い出し自問していた。

「部屋でごろごろすることでドンナ気持ちを味わえるのか?」
「落ち着く」

落ち着くというのは、その時得られる自分の感覚を少ないボキャブラリーから「う〜ん。この言葉ぐらいしいか思いつかない!」っと選んでいっただけのことで、皆が「落ち着く」ということから想像して得られる感覚とはたぶん違う。これは自分にしか分からない。・・・逆に、表現した言葉はちがうが、その感覚は、その子("ある子")と同じかもしれない。

むかし、その気持ちを自分自身管理しようと俺はしていた。たぶん腫れ物、かつ、認めていなかったのだろう。でも「落ち着きたいから、仕事をしよう!」「もう少ししがんばったら、ごろごろできるからもうすこしがんばろう!」ともしていた。怠惰実現のための勤勉のようだね。無理があった。そして、もう何年も前にいくところまでいき、「これでは上手くいかない。」」という経験をした。その責任を、自分の怠惰さだと決めた。でも、じゃあ、どうしたらよいかってことはわからず、それが逆に、怠惰さを悪いものだとだけ思うようになっていたようだ(そんなかんじさ)。でも、必要ないと思っていた怠惰さは自分から失われなかった。


「部屋でごろごろすることでドンナ気持ちを味わえるのか?」
「落ち着く」

そこで感じようとしている「落ち着く」感覚自体に目を向け「その落ち着く感覚を味わう」
呼吸はのんびりして、何の不安もなく、ドキドキもしていない。混乱もなく、ただあるがまま。そうやってまわりと接したい、過ごしたいのだ。(この言葉も自分の感覚をうまく表してはいないのだがそんな感じだ)
「なんだ。じゃあ、そこから、そうやっていろいろすごせばいいじゃん!」
と妙に納得をした。

怠惰さによって得ようとしていたものは、怠惰でなくとも得ることが出来るとわかった。
得ようとせずとも、すでに自分に持ちあわせており、それは、何かに左右され、なくなるものではないとわかった。
それを得ようと手段として怠惰である必要がなくなったのだ。怠惰さを毛嫌いするのではない。
意志の強さでもなく、単純に「自分で、自然に好きな方法を選択できるようになった」というだけのことだ。そして、「そうか。選択に意志の強さは必要ない。まず、"選択できる状態"になることが必要なのだ」と思った。

"ある子"の素直さに感謝した。

"誤解される人の姿は美しい。 人は誤解を恐れる。だが本当に生きる者は当然誤解される。"
by岡本太郎
"ある子"にも教えてあげよう。