「たばこは、いらない」を理解する に関して、つれづれに箇条書き

煙草が不要であることの理由に「子どもの頃、たばこを吸わなくても幸せであった。ご飯の後に吸わなくても何ともなかった。ストレスがたまることがあっても吸わなかった」というようなものがある。

もっともらしく思える部分もあるが、子どもの頃しらなくて、大人になって知った楽しみや幸せは他にも沢山ある。ひつまぶし、焼き茄子、車の運転、お酒、男女の恋仲などなど、知らなかったけど、幸せだった。しかし、焼き茄子なんて、今では無くてはならない必需品だ。大人になって知ったことで不要なものばかりではないので、たばこを、子どもの頃不要だったから大人になっても不要なモノだとするのには、すこし抵抗がある。

子どもの頃から、煙草は、大人になる必需品としての位置づけがありそういうものだった。ビールが不味かったのと同じように煙草も不味くても大人の味だった。身につけたものであり、それと共にすごしてきたので、客観視しにくいといえばしにくくなっている。もう、すわなかったころの感覚を思い出せない。当たり前に自分の成長と共にあったものであり、不自然なものでは、ないのだ。たばこは。

でも、でも、たばこは、不要である。とするのは、間違いではない。本当だろう。そういう感覚が煙草が必要な人にはリアルに感じられなくても、想像できなくても、そういう感覚を持っている人の感覚がごまかしではないというのは"事実"である。
(煙草を吸わなくても大丈夫な人はいくらでもいるから、煙草不要で大丈夫でいる"あり方"、"状態"はある。)

不要と思える人にはホントになくても大丈夫だから不要。必要な人には不要といわれても、なくては困るから必要である。(と思っていたり、そう感じて過ごしている。)

煙草を簡単に止める人もいる。いらないから吸わない。全然禁断症状などない。止めるのなんて簡単だった。。。という人もいる。
寝てる間煙草吸わなくていい人は止められるという意見もある。禁断症状はたばこ会社の洗脳があるという意見もある。禁断症状より、習慣、癖が強くて、たばこを思いだし、吸いたくなるのだという意見もある。(たばこは禁断症状があるから薬物であるといいつつ、禁断症状は実はたいしたことがないという論は理解しづらい。まあ、いつでも止められるものなら、吸っておこう!と思う人もいる)

ニコチンパットなどはあまり効果がないという意見もあるようだ。

実は子どもの頃から、依存体質であり、依存しないで良い方法を思いつかないという意見もある。
これは、子どもの頃からストレスなりがあり、煙草以外でストレスを解消してきたが、煙草にすりかわっただけであるという感じか。

だから、たばこをやめて、ストレスを解決する方法が想像できないため、やめられない。「たばこがなくても大丈夫!」という自分が想像できない。という意見もある。たばこをやめるためには他に何かかわりになるものが必要なのだという思いがあり、それが想像できないのだ。それが自分でなんとかできるものだとは思っていない部分もある。

たばこはいらない。という感覚を手に入れるのが一番簡単にやめられそうである。
想像できるだろうか?性格をかえないと無理か?いやいや、視点を変えるだけのようだが、
これは、いつも一服してるときに
「もう、たばこいらん。だって、いらないんだもん!」という体の感覚の実感があるようになることである。
結構パワーみなぎってる感じに自分は思えた。良い感じに想像はできる。

ストレスの解消だけでなく、ストレスの解決方法を学ぶ必要があるという意見もある。
解消は、感じた過度のストレスを解消する(食ったり飲んだり)というものであるが、ストレスの解決は、ストレス自体に強くなるということである。

結論
煙草をやめるより、こちらをまず考えた方がよさそうである。現実的で、意義深い。結果、不要になればそれが一番だ(意見)。
考え方として、「動作療法」的なものが役立つだろうか。
ストレスに強くなるというのは、わかりやすく、補助輪なしで自転車に乗れるようになるという感じか。補助輪(たばこ)なしでも自転車にのれるようになれば、補助輪はとれる。たばこ不要という感覚はそんな感じだろう。

つづく