自給自足とお金について その2

この仕事は今、介護福祉士などという国家資格が必要な職業になっているようだが、ここの職場の人たちのうち、50代以上の人の多くは現金収入を得るためにやっていることが多いような気がする。もともと、農業をやっている人がほとんどで、収入を得るために副業が必要になり、主婦の延長的な仕事としてやれるこの仕事をしているような気がする。朝早く畑や田んぼをしてから仕事に来たりする人もいる。今日の星空はとてもきれいだった。というので、きけば、朝3時すぎにおきてもう、働いている人もいる。彼らにとって、農業は昔から生活の中にごくごく自然にあるものだ。だから、たてなくなるまでずっと田んぼや畑に通う。
また、彼らにとって、お金は、快適さや便利さのために使われるのではない。多くが、医療費や子どもの教育費、冠婚葬祭等、付き合いに必要になるためである。

そのお金は農業だけで、まかなうことが難しくなっている。(山間部のこの地域の田んぼは段々畑で一枚は小さく、効率よく農業できない。
農業を守るために、出稼ぎをしていることもある。

農業だけではやっていけない。。。こんなことはずっと昔から言われていることだ。
いつでも、田んぼや畑は放棄されてもおかしくないともおもえるのだけど、それでも、今、ここで持ちこたえているのは、そこにいる人々の営みがあるからに他ならない。そして、それを支えている、そこにいる人の気持ちがあるからにほかならない。
その気持ちがとても愛おしく思える。

きっと、その気持ちを支えているために"存在しているもの”は、昔から、何も変わっていないのだ。

自給自足できるからといって、快適な生活ができるか?といえば、違うだろう。現実的にいろんな費用が必要になってくるだろう。
自分一人でできることは限られる。それを補うため、お金を稼ぐ。でも、それを本業にはしない。
そういうタフさがあるようなきがする。
そのタフさはどこからくるのだろう?とおもう。
生きている基盤が自分とは違う。自然が基盤になっている。それがタフさになってるように思える。
山奥深く、車で行くと、よちよち歩きで自分の田んぼを歩いている老人にすれ違う。
その人に我々は何かとても安心する。とてもなつかしく、頼りがいがあり、・・・といった感じ。
きっと山に生きる人が、もうすっかり、山の一部になっていることに我々も気付いているのだ。
そういう自然と一体になっているような生き方、人間の存在のあり方に、我々が、喜ぶことができ、畏敬の念さえ覚えているのだ。
我々はもともとそういう存在だったんだろうなあと思う。
いつまでも、やりあえる対象があるときっと、我々の気持ちは強いのだ。
それを忘れてしまうといけないのだ。