駆り立てられる感覚の起源。わかったこと

昨晩、ずいぶん古い夢をみた。
9〜13才ごろにそういう夢をみては、どうにもこうにもやるせないというかひとりぼっちというか脅迫されるというかかりたてられるというか、さみしいというか、むなしいというか、もういやだというか、なんせ、そういう感じになるきっかけみたいな雰囲気の夢。内容は毎回ちがって同じ夢ではなく、何か特定なアイテム(鉛筆とか、やかんとか。)がでてくるとか、そういうわけでもない。
とてもリアルな感覚で、とてもいやな感覚だ。

ちょっと意識して思い出してみた。
この感覚の起源をさぐるとさらに以前から知っていて、たぶん、保育園のころだ。
こう書くととても意味深くおもうだろうけど、実際、この気分が結構、自分のなかの「駆り立てられる」感覚の代名詞なので重要な部分ではある。そして、それが、何から来てるかやっとわかった。
それは、う○こをがまんしているときの感覚だ。
この感覚が、う○こ以外でも、嫌な感覚の多くととても似通った感覚というか気持ちというか、イヤ加減が、共通している。というよりその起源である。
我々が幼少期、生まれてはじめて経験した社会生活に置いて強制的に駆り立てられる強烈な感覚は、"他にやることがあるときの便意""近くにトイレがないときの便意"体験にちがいないだろう。したくてもできず、もうがまんできないかもしれない、いや、がんばるんだ!いやもうだめだ、がまんできない!でたらどうなる?そうなったらとんでもないことになる・・・って、もう、頭の中グルグルすることを勝手に真剣にかんがえた初めては、ほとんどの人が、う○こをがまんしたときだろうとおもう。(たぶん、ものごとを予測したり、思考したりってことを初めて差し迫って考えたのは、だれもが、このときではなかろうか?考えるって事が、う○このがまんが起源かもしれないとなると、たしかに、無意識に良い印象を持たない人も多いかもしれないな。。。思考を伴う勉強が嫌いになるのは、これが影響してるのかもしれない。)また、生まれてはじめて、社会性と欲との調整を学んだ部分でありながら、あいかわらず便意だけはどうしようもなくコントロールできない。やっかいなものだ。これは、時折起こる不可抗力やトラブルのときのイヤ感覚、対処しないといけない感覚とまったく同じである。

自分で、どこか、このスッキリしない感覚について、何が原因だろう?どうにかならないものか・・・と気になっていたんだけに今朝はかなり納得だ。うれしい。イヤ感覚、その大親分は、便意の対応だったんだ!とわかり、とても納得がいった。
われわれは、"社会生活上"、何か嫌なことが有れば、幼少期の便意の体験のときの"思い"が無意識に再生されているのだ(あるいは、ベースとなって脚色されたものがさいせいされているかもしれないが、基本は、幼少期の便意体験のはずだ)。

なにか、スッキリした。スッキリだ。