違いのわかる男 その2

前にも書いたが「もう大丈夫!俺はもうなにものにも動じない!」と思っているにも関わらず、再発?ってときには実際は、もう、ぜんぜん!動揺しまくり!怯えまくり!ってことがあった。

このとき、俺は、動揺したり、冷静でいられないことが辛かったため、それを毛嫌いした。
冷静でいること、動揺しないで冷静に受け止めること、対処することが必要と思ったからだ。
しかし、実際は、ショックだった。それがとても不安定な状態になった。

今は、そういう風に、動揺したり、ショックを受けることも大切だと思える。

大切と思わず
自分の弱さを排除しようとして、結局、不安定になるのだ。

コアトラでどんなときも、心が安定しているのが本当である!と、それも、無意識にそうしていた。
不安定さを受け入れられないのは間違いだった。
(不安定さや、弱さを排除するっていうのももちろん大事ではある。そういう、排除しようとする弱さを受け入れてあげるのも大切だとおもう。)

病気が長引くと、悲観したりしてなかなか前向きになれない人もいた。
でも、こういう人は実はチャレンジャーだ。
希望を持てない人は絶望もしない。

希望を持つというのは、絶望やショックや、そうした負の部分も請け負うことになる。
安全はどこにもないとわかっているときのチャレンジには、不安も請け負わなければならない。
希望やチャレンジには、そういうものが伴う。

別にやめてもいいとおもうのだ。あきらめればいい。余生を。そのようにしようとおもえばそうできる。
何も考えないでおこうとおもえばそうできなくもない。
でも、大抵、多くは、苦しむ。つまり、あきらめられないし、希望を知っているし、チャレンジ魂をしっている。

これは、愛することは、失うときの悲しみを請け負うこととにているとおもう。

とても良さそうに感じてはいたのだけど、
それがなんなのか?と深くしっりたいものだとおもった。

それは、絶望をどうすればいいのか知りたい。ということもふくまれているのだけど、
探求者でいる必要がいつもあるようだ。と感じた。
また、このことについては、だれにとっても、とても大切で、深く関係があることだとも思えているのだ。

安定、安心をもとめているから、不安定や不安にもなる。
多くの場合、不安や不安定だけを取り去れない状況にもなったりする。
安心を求めるのが間違いだった!不安になるのが間違いだった!
とか、フェデラーのように「昔は、試合中動揺して泣いたりした。それでは消耗するだけ」と気づいて
精神的にタフになる人もいるだろうけど、俺のように勘違いして、
安心、不安という不安定さを毛嫌いするだけでは上手くいかない。
安定だけ認めては、その感覚は、上手く行っているときしか通じないと理解した。行き詰まるのだ。

そういうときこそ、逆に、自分の勘違い、負、の部分に感謝することができれば、そこから得られるものが
あるというのは、知らない人にとっては、本当に驚きになり、助けになると思った。(考えも思いもしなかったことだったし。)
これは、いつでも(自分が不安で頼りなく、どうしようもないと思えるときも)、自分を頼りに出来るという理解でもある。
人は、メンターのような人は必要だが、人にすがる"しかない"ということから抜け出せる。という理解でもあった。