できるひと

昔、とても仕事が出来る人が会議で、ある効果的な試みの意義役割について言葉で説明することについて「いつも、理論的に裏付けしないといけないのがむずかしい。これについては、まだ、理屈付けできてなくて。。。」というようなことをごくごく当然のように話しているのを聞いたとき、ガツン!ときた。
俺は、右も左もわからないヒヨッコで、出来る人は、こういうことも簡単にやってしまうのだろうなあと思っていたので、このときは驚いた。世の中から出来るといわれる人は、実践から理論からすべてなんでも完璧!とおもっていたのだ。
実際は、できるひとは、そういうのは、あたりまえすぎて、何にも考えていなかったりで理論的な裏付けが面倒くさいとおもっている(ことが多い)。
できる人は、理論よりまえにあるいは、きっと理論的に説明できるのだろうけど、それが説明できないままでもできてしまうということがあたりまえ。理論的裏付けより前に、自分が、それは、できる!ということを確信できている。考えてみれば当たり前だ。理論的裏付けを書き出すといっても、一定のルールに基づいて清書したり顕在化するということがほとんどで、それはだれにとっても面倒なことだ。

また、そっちのが自然である。他のできるといわれてるひとは、みんな発想や行動の順番がそのようである。
そっちのが実際できるのだから。できるとおもったら、常識、実績が無くてもやるほうがよい。と思う。
なぜかやらない人もいる。それは、もったいない。
また、できるときは、われわれは実際そうしている。

といって、テレビ塔から、パラシュートもなにもつけずにいまからすぐ飛び降りても大丈夫!できる!とたとえおもってムリだと思うし、させてはいけない。それはまた別の話。(パラシュートや保安用品付けずに飛び降りても大丈夫な"何か(装置、施設、状況、)"をつくってしまうことは可能だろうとおもう人は多いだろうけど。)

いいたいのは、

できてることでも説明できないことは沢山あるが、説明できないと新しいこともできないかというとそういうことではないということ。でも、それを他人に証明するのに、みな大変な思いをしていて、グローバルスタンダードというのも、考えものだとなんとなく感じる今日この頃。
人間の"できる感覚"にあったしくみである簡単な社会がやっぱり、いいね。

契約のために説明できなければならないっていうのは、結局、だれのために、清書してる?ってことなんだ。
清書しなくても、我々はできるし、役立てる事って多い。清書されてないところの楽しさが一番!とも思ったりする。