オサナイとは

岡本太郎さん曰く、「孤独であって、充実している、そういうのが人間だ。」なのだそうだ。

この「充実」ってどんなものかと思いをめぐらす。

人間、"幼い"と呼んだり呼ばれたりで、切り捨ててしまって、育ててこなかったものがたくさんありそうだとおもう。
何かをしたあと、「まだまだ、幼いね」「そんな幼い事いってて」そんな風なやりとりがあると、
とりあえず、その「オサナサ」といわれるものは、脇に置いておいて、目の前の事に取り組まなければ
ならないことも多いため、そちらを優先する。
いつしか、その「オサナサ」は、放って置かれる。
そういう「オサナサ」が、私達の中で、いくつもいくつもばらばらになっている。
そして、これがばらばらでは、この孤独であって充実しているという、充実が理解できない。と思う。

「(そのオサナサは)何の役にも立たない!」と、目を背けると"かなり"もったいないこともあるだろうなあ。と思う。
集団の中では、オサナサは異端とよばれたりもするだろうし。
"オサナサ"がホントは自分にとって宝かもしれないなあと、思う。
オサナサを大切にしないと知恵もわかない。

じゃあ、どうすれば、オサナサを大切に出来るのか?あるいはそれを実感するには具体的になにをすればいいのか?

手っ取り早かったのが、ネガティブ思考である。
「自分の思いつくことは大したことない」とかはよく感じるが、
そこで終わってしまうのがつまらない。と考えてみる。これは、まぎれもなく
オサナサを排除しているってことだ。と捉えることができる。

そこで、「じゃあ、そのつまらない思いは、いったい何処から来ているのか?」
と問い直す。(そういうブレークスルーの視点も必要だ。)
そうすると「それを探す価値は、確かにある!」と自分が深く納得して感じることができるはずだ。
なにかワクワクするに違いない。
また、それを探しだして欲しいとオサナサといわれてしまった自分も思っているので、これには喜んで
協力してくれるはずだ。

できるかぎりの努力をしたヒトてが、そういうことに気づく事も多いが、
そうしなくても、視点をかえたら、そういうことに気づけるとも思うのだが。。。。
こういうことに関心を持てる状態のヒトは、結構、ギリギリまで努力したことがあったりしているので
やっぱり、同じか(^^ゞ