姨捨山(おばすてやま)について

特養は、特別養護老人ホームの略称。
特養にきて3年目になる。
最近のジレンマは特養の存在意義。。。に、ついてだ。
特養に入所になる理由は、認知症になったからとか、独居で世話をする人がいないなどいろいろだ。
なんにせよ、理由はさまざまながら共通するのは、
“家にいられなくなった。”
という理由だ。
しかし、この理由については考え直さないと行けないと感じる。
認知症で特養に入所になった人の多くが入所して認知症状が進行したようになる。
理由は簡単、習慣が変わる。これは我が身に置き換えて考えてみればわかりやすい。
今まで使っていた車から他人の車に乗り換える。
勝手が違うから戸惑うのは当たり前。
認知症と言われる人にしてみれば、特養に入るのは
生まれて初めての経験なのだ。
今まで慣れ親しんだ生活環境とは違う場所につれてこれられて
今日からここで住んでくださいと言われる。
勝手が違ってしまい、それに対応出来ないのは当たり前。
やったことがないからできない状態になる。
認知症状が進行したように“みえる”のはそのためだ。
決して進行しているわけではない。
歯磨きもできなくなった、トイレも上手く使えないなど
今まで使っていたのとは違う場所と道具を使えと言っているのだ。
いきなり、使えるようになるのは、無理。
その戸惑いを、勝手にこちらが認知症の人だとか、認知症が進行していると言っているだけだ。
現在、また、今後、老人介護は、在宅が基本になると言われてる。
それが理想と思う。特養に来てわざわざ認知症を進行させる必要はない。

家で生まれて家で死ぬ。

これが自分たちの望んでいることなのだけど
今現在多くの人が、そうしたくても出来なでいる“社会”なのだ。

こうした社会構造を変えるには考え方をまず変えていく必要があるように思う。

家にいられなくなるのは、認知症の人ではなくて、
認知症の人を抱えている“家族”の方!
というのが本当だとおもう。
徘徊、暴力にあって、家では暮らせないと思う。
現在の考え方や環境では当たり前かもしれないが、
それでも、もしも介護に関するサービスが日本の今の状態より進んでいて
暴力や徘徊、困ってしまうような行動があっても、
家で暮らせるような環境が整っていくなら、きっと可能である。
認知症の人を家から追い出すようなことは逆に大変な社会であるように感じる。

家で暮らせる環境を整えることが先である。

そういえば、最近、テレビで、しむらけんと加藤茶がおば捨山のコントをやっていた。
ばあちゃん役の志村けんが何度も何度も姨捨山にすてられるのだけど、
元気いっぱいで帰ってきてしまうというの。
なんとなく、皮肉っているようでおもしろかった。

しかし、
変わるのかな。