歪な固まり その2

昨日の話のような状況は、いろいろ考えられます。
原因もいろいろで*1一般化したり、
一概にどうこう言えない類の話だと思うのですが、
ただ、絶望を歪としているのではなく、
それが当然であると、それを省みられない、
客観視できないと本人が"思っている"部分が、
????と、なんでだろう?ちょっと注目〜〜!
気にしてみてみてよ〜〜!という感じ。

だれでも、絶望的に考えれば絶望的になるに
決まっているということを
知ろうとしないようにみえるともどかしく思います。
恐い人が、恐い映画をみれば恐くなります。
絶望感の強い人が、絶望的に"考えれば"、
つまり、絶望することをわざわざ具体的に
想像し考えれば、絶望するに決まっている。

でも、それがわるいということではなく、
なぜ、絶望しているのか?どうして絶望
したいのか?をもっと考えたり感じたり
するという暇がなかったり、考えが及ばないのが
とてももどかしくなったりします。

絶望する理由がないのに絶望するという場合については、
きっと、自分でも他に大事なことを
気づいておきたいと感じているとおもっています。

何らかの理由で、絶望を積極的に感じようとしている。という
部分については、きっと自分でも思いもよらず

積極的な歪でない理由があるのだとおもいますが
その理由のために、絶望しようと自分で決めて絶望している
と思うのですが、
そのホントに表現したいもの、その理由から考えるなら
きっと、"絶望"という表現は、歪だと"推測"しました。

なぜなら、聞いてもらって、楽になるということがあるのは
それが認められたいと認識しているからだと思うのです。

でも、ずっと絶望していていいとは思っていないとおもいます。
聴き手は決して絶望を認めているのではなく、
その理由のほうを理解するのです。

聞いてもらって認められて元気になっても、
でも、根本的に解決されていないから、また、
同じように絶望という表現をするのだろうと私は推測しています。
それがもどかしいです。

また、絶望した人は、それを聴いてくれる人に感謝したりするのですが、
それを何とか出来る、してるのは、他人でなく、当然のことですが
ホントは本人の力がメインで、それ以外はないと私はおもいます。

とどのつまり
"自助"というのをもっとあたりまえに知れたらいいのだろうなあ!
と思っています。

*1:例えば、愛する人を亡くしたとき絶望感に支配されるにきまっているし、立ち直るのに時間がかかることは想像できる。