親の価値観

うちの親の価値観は、「生活できない活動は無意味であり、何かをしているとは言わない。」
という考え方である。その点から、俺はまったくなにも、役立つことをしていなくて無意味なのだそうだ。こう言われるともう何やっても駄目みたいにおもえたときもあった。
生活できない、つまり、お金儲けできないということだけど、それは、ほんとに無意味だろうか?普遍的にあてはまるのだろうか?
お金を生まない活動は、仕事として価値がないということだけど、結果を残さなければならないのは、明らかに
普遍ではない。それは、毎月の返済が定期的にある生活をしているから、結果をのこさなければならないだけだ。
これは、大手の企業でもかわらない。株価を上げるため、定期的に成果、結果をのこさなければ成り立たない性格をもった仕事をしているに過ぎない。
ホントは定期的に成果がでなくて本当に困るヒトなんて,ほとんどいないはずだ(ライフラインは困るね。)。困るような気になったり、困るしくみになっているとおもいこんでいたり、そう思っているにすぎない。この、定期的に結果を残さなければならないというのは、本来、タダの約束ごとで、それもかなりの上層部トップだけが得をするための都合のいい理屈で、ホントはとても人間味のない押しつけられている価値観の一つだとおもう。
それが当たり前みたいに生活しているのだけど。定期的に返済していくという形を私達がとっている(とらされている)のは、投資者や貸付者が「安心」できるからだ。彼らの安心のために私達は借金をするという価値をうけいれて(あるいはその気にさせられて)返しているにすぎないとおもう。

しかし、これは対立すべき話ではない。「どうにもできない」という勘違いをなくしたい。どうにもできないというのは本来ではない。と思う。

親の世代は「働いて、約束を守って、身を立てる」勤勉世代だ。それも約束を守ることには真剣だ。だからこれだけ信頼されてきたといわれるが、お金の流れという別の面からみれば、良いように利用されてきた面もある。受け入れたのは私達自身でもあるのだが。
ここから抜け出したいのも私達自身である。
自分で自分のすることの何に価値を与えるか?を考えるとき、その評価は別れて当たり前だ。
最近では日本で価値がないといわれても、海外では価値を認めてもらえることもあるので、ホント、勝手に結論を出すのは考えものだと知っておかないと眠ってしまう日の目をみない才能が日本人には、まだまだ沢山あるだろうね。