富山へいってきた

予定通りいってきた。
保護者Aは以前こっちで働いていたので、再開歓迎の雨あられ
私は保護者Aのコブツキのようだった。
まあ、40にもなって自営してたのに富山にくるってのも
なんだが"訳アリ者"のような視線と、どう接したらいいかわからない視線、
たしかに、そう思うだろうなあと思った。
でも、かえって、それがわかるので、ありがたい。
考えてることがわかりやすく正直でいい人がおおいのだ。
それなりに対処しやすい。
何考えてるかわからないほうが難しいし気づかずに迷惑かけたまま
とかだと情けないし。

あと、ホントに必要なのは看護職だけのようだ。
看護職確保のため、しかたなしに雇ってもらえた。
という感じである。気を使って、義父が「必要だ」としてくれていたようだ。

しかしなあ。。。
必要ないと思われているのは、ちょっとさみしかった。
だけど、まあ、そういう必要とされない"寂しさ"を知ってることが
いかせる職種なので、良い経験でもあった。

しかし、不思議である。
その施設には、若いとき必要とされなかった人もいるだろうに
その施設に入ればだれも長い年月生きてきた大切な必要な人として扱われる。
で、わたしは、その施設には必要ない人としてしかたなしに
雇ってもらって働くのだ。この辺が、なかなかおもしろい。

*1

*1:以下、わかりにくいです。メモ書き。いつだって、どんなときでも、どんな状況でも、必要ないと思われるのは寂しいものである。これはいったいなんなのだろう?と思うのだ。社会的に必要ない。あるいは、こちらの人のが優秀でいいとか。まるで、人間同士弱肉強食を無表情で過ごせてしまってるぐらいあたりまえになってしまってることなのだろうか?私は、やはり、臀部がブルーなのだろうか?もっと、「何か」いい認識や方法があるはずである。無性になにか、そのへんのことを広く、深く、いろいろに知り、はっきりさせていきたいのだ。その答えを自分なりに知りたくて行きたいのだ。この辺、だれにでも、わかりやすく、もっと簡単に、アハ体験できそうな類の話のはずだ。もっと、社会全体が、日常的に、だれもが、自分自身を必要だ、必要とされていると感じて生きられるほうのが良さそうだ。何ができてるだろうか?と自戒する。