イジメについて その2

    • うわっ!とかいたので、書きかえると思います--

スマステかなんかで、「出席停止にするのを反対するのは、おかしい。」といった話をしていた。
教育再生会議が、どういう行動をするのかより、どういじめと関わるかが見えてこないから、出席停止はおかしいと思った。この会議、説明不足であるし、「出席停止」発言は不用意であったとやはりおもう。
たとえば明らかに他人に危害を加えるヒトを校内にいれるのは間違っていると思う。あたりまえである。
しかし、この発言は教育にかかわることである。
出席停止にして、それで、関係者がどう関わるのか、見えてこない。
イジメるヒトを学校はもう変え様がない、教育できない、手だてがない。お手上げなのだという印象である。再生会議が「いじめているヒト」はお手上げと言っているようなものに思えた。
(どうせなら、被害者保護のため加害者出席停止の上徹底的に自宅指導というところまで話をすべきである。)

いじめているヒトを再生させなければ、イジメは無くならないし、
いじめにいたるその子が産まれてから、育つ途中に、得られなかった
もろもろの必要不可欠な事について、さてどう向き合っていこうか?って
ところの話がもっとあたりまえに聞こえても良さそうなのだけど、
「美しい」などという形容詞で格好ばかりきにしてて
おかしくなっているとやっぱり思う。
この会議、もっとこの状況、多くのヒトが一斉に俯瞰して客観的に冷静に考える視点を与えられるように説明できる状況にしていきたいはずなのであるけどそれをしようとしていないようにおもえる。(なんか自分たちの手柄ばかりもとめているような。。。。だから、会議の外野はおいてけぼりで、わかりやすくない。)


また、そうやって、なんとか余裕がない我々大人自身、まず、救われる必要もあるし、
(なんとかがんばってる大人だから、子どもに「なんとか、強く生きれよ!」と叱咤激励する。)それに付いていけない子もたくさんいる。
まず、自分たちが余裕がない、歪んでいるというのを受け入れるべきである。
我々も未熟だ。
社会では、強い者が弱い者をイジメることは働く上で耐えることに分類されている。
(下請けからは絞れるだけ絞るとか、普通である。)

でも、それはホントはイヤだと思っている。

本当はどういう経験が必要だったか?どういう生き方をさせてやりたいか?
いじめてる子が生まれてから、どういう体験をしてきたか、
どう思ったか、その過去が観られれば、きっと、だれでも
手をさしのべたくなることがあったりすると思う。
(そんな映画でもできればきっと、みんなそう思うだろうし、きっとそうなのだ。)

結局、このまま、少年院に入るまで、その子のおいたちについて向き合われず
手もさしのべられないのは残念ではないか?

なんかなあ、、、もどかし!と思った。